ゼロの激痛
 

理解と免疫」で書いた“解りたくないこと”ではなく、
ほんとうに理解できないことについて。

人間の無理解というのは、凄まじいものである。
何が解らないのかも解らない、という深刻な状況は、
ある程度の人生経験があれば、多かれ少なかれ誰でも経験することだろう。
しかし、解らないということが解らない、ということを、知らない
そういう状態ですら、少なからずありうる。
これは人によっては当たり前のことだが、 人によっては経験しないのかもしれない。

この状況を、仮に『ゼロ』 と呼ぶことにする。

もしも誰かのゼロに出くわしたとしたら、 多くの場合、それはあまりにも異常なことであるので、 指摘することができない。
この人は何か、解らないはずのないことが、わかってない。
それがあまりにも根本的な何かであるために、何なのかを特定できない。
あるいは特定できたとしても、それがあまりにも根本的なことであるために、その人に指摘することができない。
滅多にないことだが、相手に指摘する機会を得て、思い切って指摘してみても、相手は何を言われたのか、理解できない。
なぜならば、それはその人にとって、ゼロだから。
ゼロに何をかけても、ゼロなのだ。

もしも自分自身のゼロに出くわしたとしたら、 それはとても珍しい出来事といえる。
自分には、解らないということが解らないということを、知らない何かがあるらしい、と気付く。
気付いたのだから、それはもうゼロではない、と言えなくもない。
もしそうなら滅多にない経験だ。無知を知に変える機会を得たことになる。
しかし、実際にはゼロはゼロのままか、『無限小』の状態に移行したまま、停止する。
何か自分には、解らないということすら解らない何かがあるらしい。しかしそれが何なのか、知ることができない、と思い知る。
この状態をゼロと呼ぶべきか、無限小ととるべきか。
いずれにせよ、魂は終わらない無窮の苦悶を抱え込むことになる。
解らないままやり過ごすことは、許されない。
許されるようなことならば、そもそも気付くことはない。許されないから痛む。痛むから、気付くのだ。

いまここで『ゼロ』と呼んでいるものが、仏教の“無明”と同じものか、あるいはショーペンハウアーの“盲目的な意志”と同じものか、解らない。
同じような気もするが、どことなく無明なり盲目的意志なりは、善悪のないエネルギーのような感じもする。
ここで描き出そうとしているのは、わからないということがわからないということを知らないということ、
あるいは、千載一遇の機会によって、解らないということが解らないことがあるらしい、と気付くことができても、それが何なのか解ることができずに生涯苦しむような何か、である。

人の無理解、とりわけ他人の無理解を苦しむのは、
若者の特徴のように言われることがあるが、
じつは、逆である

自分のゼロも、他人のゼロも、 歳を重ねるほど、 果てしなく痛み始める。
何が痛いのか、なぜこんなにも痛いのか解らぬままに、 解らない何かが痛むのだ。

人間の無理解は、多様である。
だから類型化することもできない。
何が解らないのか解らない何かを、 何も解らないまま痛みぬきながら、 人は歳を重ねていく。

2009,12/30 初稿upload
12/31 推敲


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