舞踏と音楽 1
 

――“舞踏”といわれてもピンと来ない方は、サーチエンジンで「舞踏」「暗黒舞踏」「butoh」などのキーワードで検索をかけてみてください。大抵の踊りがそうであるように、舞踏もまた画像と実物の差が非常に激しいものではありますが、それでもなんとなくのイメージはつかめる事と思います。

舞踏の方々が音楽と関わる際に、他のダンスの方々と著しく違う傾向があるとすれば、舞踏の方々は「拍(ビート)を無視して踊る傾向が強い」という事だろうと思います。
一口に舞踏といっても、公演で使われる音楽は全くさまざまですが、ビートに合わせて踊るケースは殆どありません。どちらかというと、「拍=ビート=計測できる外的な時間」よりは、「内的時間=計測できない、その音楽を生じさせているエネルギー=内実」を踊っている事が多いように思われます。

従いまして、舞踏のために音楽を作る場合、音を作る側と踊る側の「内実」がうまくかみ合うかどうかがとても重要な問題であり、しばしば大きな壁となってまいります。

例えば、音を作る側が“舞踏家が舞台や客席をすべるように駆け抜けていく”のをイメージして、持続音を主体とした曲を作っても、踊る側は中空を見つめて立ち尽くしてしまったり、逆に“舞踏家が痙攣してうずくまっていく”のをイメージして激しいノイズを作ったら、踊る側は楽しそうに暴れだしたりするとします。

この場合、音を作る側(この場合は私)と、踊る側の内実がうまくかみ合っておらず、踊る側は音の変化が多いほど多く動いてしまっている、つまり、「音の数や量」といいますか、「音符の量」のようなものに合わせて踊ってしまっているという事ではないかと思われ、音の側としてはつらいところです。

逆に、比較的うまく行きやすいケースとしましては、踊る側の内実が、音も振り付けもないままにいったん具体的なイメージに凝縮されていて、尚かつ事前に決まっているべき事柄も大体決まっている場合が挙げられます。

「このシーンでは岩石の中、時間の海の中を、化石の魚がものすごいスピードで泳いでいる。その岩石であり時間でもある海の中には風が吹いている。7分くらいで踊るつもりだが、その時々で前後するので9〜10分以上で作っておいてくれ。」

みたいな事を言われ、尚かつこちら側がその言葉に対してはっきりと音を聞きとる事ができる場合。これは大抵すんなり行きます。出来上がってから誤解だった、というような事は滅多に起きません。

とはいえ、舞踏の方々と音を作る側との内実には、常に深いみぞがつきまといます。
時折、「自分は音はいらない。あっても邪魔なだけだから無音で踊る」という方や、「自分は踊るのに音を必要としていないが、客が退屈しないようにかけとくんだ」という方にお会いする事がありますが、気取りや厭味ではなく、「自分の内実と、自分の体内の時間だけで、踊るには十分だ」という事なのでしょう。

又、「音の時間と体の時間は所詮違うもの。大抵は音を作ってる方が引いて見れてるんだから、愛情をもって困らせてあげればいいんだよ」と言ってくださる舞踏家の方もいるのです。


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