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ノイズから始まっている

この文章は、一見なんの意味もなさそうな、専門的な、無味乾燥な文章と、それをふまえた上での、いくつかの短い問いかけからできています。我慢して最後まで読んでいただき、最後の問いかけについて一緒に考えていただければ、筆者としては望外の喜びであります。

使用できるRAM量が増え、ハードディスクからのストリーミング再生と組み合わせることも可能になった今日のサンプラーの状況になる前まで、“楽器の音をサンプリングして演奏する”という行為には、ある一定の技術的作業が必要でした。(その技術は、今でも一部のサンプラーやPCMタイプのシンセ、それにしてなによりRAMを少ししか使用することが許されない携帯電話や携帯ゲームの内部に於いて、つまりお客さんの知らないところで、黙々と行われている作業です。)
その作業というのは、簡単に言いますと、

『楽器音を少ないデータ量で再現する』

という作業です。

そのために音の職人たちが何をするかというと、

『楽器音を一度バラバラに分解して、必要最小限の要素だけを抜き出し、それをもう一度楽器音として成立するようにつなぎ合わせる』

とでも言うような作業です。

基本的にこの作業は“くっきりした音程を持たない音”ほど困難になり、スネアやシンバルのような音程を持たない音では殆ど不可能となります。ですからたいていの場合、この作業は音程を持った音、“楽音”に対してのみ行われます。

以下にわかりやすい例としまして、トランペットの音をサンプリングして演奏素材にまで作りこむ過程を挙げてみます。

まず、一定の音程でトランペットを「ぱああああああああああ‥」と吹いたものを、コンピューターに録り込みます。

これが“録ったそのまま”を画面に表示したものです。

現代において、音というものはすべからく“空気の振動である”と信じられており、“音には空気の振動が介在している”という発見と、“音とは空気の振動である”という信仰が、今日の録音技術を作ってきました。この画面は一種のグラフでして、左から右に向けて時間が流れ、縦軸は空気の振動を表わしています。

さて、これを“必要最小限の要素”に分解してみることにします。

さきほど、トランペットを言葉で表現するのに、「ぱああああああああ」と書きました。

つまり、この音は「PAAAAA」――「P」とでもいうべき冒頭の一瞬の特徴的な部分と、「AAAAAA」という単調な部分に分けられるはずです。

この音の、「P」と「A」の境い目あたりを拡大してみましょう。

左半分くらいが「P」に当たる特徴的な部分、右半分が「AAA…」と繰り返されている部分です。ちょっと判りづらいので、下に「P」をさらに拡大したものと、「AAA」を拡大したものをご覧いただきます。

「P」部分の拡大

「A」部分の拡大

「P」が複雑で、一瞬も留まっていないのに対して、「AAA」の方は比較的単調なくり返しになっているのが見て取れると思います。

で、これから何をするのかといいますと、「AAA」と繰り返している部分を本当に“繰り返し”にしてしまいます。これは「ループを切る」とか「ループを組む」とか呼ばれる、音作りの現場では良く知られている作業です。

画面右側の赤いラインまで再生したら、自動的に左側のラインに戻って再生し始め、あとは赤いラインの間をくり返し再生し続けるように設定します。

これで、冒頭の「P」から再生がはじまり、音が「A」に移り変わったところで「鍵盤を押している限りAの部分を繰り返し続ける」という音データが出来上がります。

出来上がった音データを俯瞰してみてみますと、こんな感じになります。

二つある赤いラインの右側まで再生したら、左側のラインに戻って再生するわけですから、右側の赤いラインよりも右の音は全部いらないことになりますね。右の赤いラインより右側の音を全部削除します。

これでとりあえず、「少ないデータ量で楽音を再現する」作業は完了です。

もちろん、今回は話を簡略化しています。実際にはもっと色々と細かい作業をやります。

その細かい作業の中に、“この音をどこから再生し始めるか”というものがあります。

実は、冒頭の「P」の直前に、つまりこの楽音が生じる瞬間に、どうも「P」とは違う“何か”が微かにあるのです。

あまりにかすかで、鳴っている時間も100分の1秒くらいでしょうか。
縦軸を拡大してみましょう。

音に秩序や規則性が全くありません――つまり、ノイズです

このノイズは、バッサリ削除しても、鍵盤で演奏した時にそれほど不自然になりません。逆に、このノイズを削除せずに残しておくと、鍵盤を押してから音が鳴り始めるまでに僅かに時間の遅れが生じて、弾きづらくなってしまうこともあります。ですからこのノイズをデータから削除するかどうかは、音色の用途や、使えるRAM量や、作成する人のセンスに委ねられている部分です。

いずれにしても、何らかの秩序を持った“楽音”をパソコンで見ると、その冒頭には、通常気づかないノイズが必ず生じているものです。

――今回はトランペットを例にしましたが、実は、フルートでも、ギターでも、バイオリンでも、何らかの秩序や規則性を持った音が発される時、多かれ少なかれ殆ど同じ物語を辿っていくのです。

―1:
生じる時に、一瞬ノイズが生じる。

―2:
そのノイズはすぐに特徴的な、その音色がどういう音色であるかを決定付けるような、短い時期にとって替わる。

―3:
それはほどなくして“ループ部”に移り変わる。ほんの少し揺れたり、小さい音量になったりと、微妙な陰影を加えつつも、基本的には“繰り返し”を行っていく。その繰り返しは、音色(あるいは音符)によって急にぷっつりと消え去ったり、ゆっくりと消えていったりさまざまだが、全ては繰り返しながら消え失せていく。

ノイズ(noise)の語源が、“あたらしきもの”だという説をどこかで読んだのですが、どこで読んだのか、もう忘れてしまいました。
ですが、このプロセス、この“物語”について考えていただきたくて、こうして長々と書いてきたわけです。

●ノイズであるということ、ノイズであり続けるということは、どういうことなのでしょうか。

●偉大なジャズ・トランペッターが「ジャズは死んだ」と言った時、偉大なロックギタリストが「ロックは死んだ」と言った時、何が起きていたのでしょうか。

●「ウッドストックで音楽は終わった」という人や、「19世紀には音楽は既に衰退期に入った」という人は、何を言っているのでしょうか。また、「日本の音楽には小唄だって琵琶だってお囃子だって、なんでもある、全部ある。若い人がわざわざ外国の音楽を聴いたりするのはいかがなものかしら」と微笑むおばあちゃんは、どんな状態にあるのでしょうか。

●世界中の神話、とりわけこの世界が出来上がるときの記述に、肝心の物語が始まる前に「○○がXXを生み、XXから△△が生じ‥」と、無意味ともとれる名前の羅列があるのは、なぜなのでしょうか。

●主語はなんでも構いません。“科学文明”でも、“地域通貨”でも、“携帯電話”でも、“江戸幕府”でも、“印象派”でも、“ミニスカート”でもなんでも構いません。それはいつ、何にとって、「ノイズ」でしょうか。「特徴つける短い時期」でしょうか。「ループ内の一時期」でしょうか。

●今、辛抱強くここまで読んでくださった方、あなたにとって、あなたの内側に、あるいは外側にある、もろもろの何かは、あなたにとって、また、あなた以外の何かにとって、今、ノイズでしょうか。特徴つける短い時期でしょうか。ループでしょうか。

それでは、ご長読ありがとうございました。


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