文章リスト
2001年の近況選

―2001 12/18、柔らかい近況

草木が枯れていく。
唐突に、彼らは死んでいくのであって、快復はしないのだ、と気付く。
来年芽吹くのは、今死んでいく草木の子孫であって、
個体としての彼らは、二度と再来する事は無いのだ。
“種”としての彼らは、来年もきっと線路沿いを緑で覆ってくれるだろう。
しかし、もしも彼らを“個”と呼びうるとするならば、
彼ら一本一本、一葉一葉は、
二度とこの世に現れる事はない。

―2001 11/13、柔らかい近況

だぁ〜〜っ!!!!
だぁ〜〜っ!!!!
だぁ〜〜っ!!!!
電車の中で子供が叫んでいる。
車内中がその声の大きさに驚いている。
普通、子供といえども、人間は滅多な事では自分の肉体の限界を超えた声を発するものではない。
よほどの感情の爆発でもないと、声帯の限界を超えた声を発する事はないはずだ。
だが、その子は違う。声帯の限界を超えた声を継続的に発し続けている。一体何が起きているのか?乗客が多くて私にはその子(と母親らしき女性)の様子が見えない。
さらに不思議に思ったのは、その声にそれほど激しい感情が含まれている様子がない、という事だ。その子はキレて絶叫している訳ではない、という事が聞き取れる。「知的障害」の子か?、とも思ってみたが、だぁ〜〜っ!!!!の合間合間に、非常にかすかに、「ねぇ●●、●●‥」と、何かが欲しいか、どこかへ行きたいか、内容は聞き取れないものの、きちんとしたしゃべり方でお母さんに“おねだり”しているのが聞こえてくる。どうやら母親に対して、「自分のおねがいを聞いてくれないと、また大きな声だして、お母さんをこまらせるぞ」、という事らしい。
さらに不思議だったのは、そのお母さんの発する「しずかになさい。」という声も、私のいる位置からは殆ど聞き取れないほど小さな声で、しかも、その声に、
恥ずかしいという思いも、
大声をやめさせなくっちゃ、という焦りも、
抑え込まれた怒りも感じられないし、
それでいて無神経さも、愚かさも、意地悪さも全然感じられない、という事だ。
これはいったいどういう事なのか。全然状況が読み取れない。

私が降りた駅で、その母子も降りた。
ホームで、その母子を見た。
疲れる事も、つらいと思う事も、
悲しむ事も、希望を持つ事も、
絶望する事も忘れてしまったかのようなお母さんの背中が見えた。
3才くらいのちいさな男の子の両耳には、
大きなおおきな補聴器がついていた。

―2001 10/16、柔らかい近況

未来
この言葉の意味は、すっかり変化してしまった。
SFチックな話ではなく、意志、及び意志の方向の話。
安易な絶望は、以外と感染性が強いし、
場合によっては罪ですらありうる。
ただ、心の奥底に絶望感の払拭できない地域があり、
それは当分無くならない可能性がある。
増殖を避ける事、これは可能だ。
絶望感の増殖を避ける事が可能だ、という事は、
私には希望の一種のようにも感じられるのです。

―2001 10/2、柔らかい近況

モートン・フェルドマンのCDを2枚買ってきて、聞いてみました。
やっぱり、舟沢の体質にはあまり合わないようです。
アメリカの現代音楽というと、舟沢はジョージ・クラムとかが好きです。

―2001 9/25、柔らかい近況

「モートン・フェルドマンについてどう思うか」って、
ちょいちょい訊かれるのですが、
あまり意識した事がないというか、
実は一曲しか聞いた事がありません。
こんどちゃんと聞いてみます。

―2001 9/13、柔らかい近況

9/13の柔らかい近況は、少しだけ手直しして、文章類に移動しました。
「理解と免疫」です。

―2001 8/29、柔らかい近況

近代化に伴う退化の一例。
例えば、“夜”と呼びうる意識状態や、“昼”と呼びうる意識状態について、私は少なからず身近な問題としてイメージを形成する事ができる。
だが、かつての様に、一日を通して生じる“夜”や“昼”について、身近なものとして思い浮かべる事が困難になりつつある。
一年を通しての、つまり時間軸上においての“春夏秋冬”なども、又同様だ。
本来時間軸を通して感得されていた諸概念が、空間的な、あるいは“抽象的”と言ってもいいが、何かそのようなものに変質しつつあるのだ。
この現象がいつから自分に生じはじめたのかを思い返すに、6年程前に、今のマンションに引っ越してからだ、と思われる。
今住んでるマンションは、エアコンもあるし、すきま風だって入ってこない。窓の外に樹もないし、夜になっても夥しい街灯のおかげで外は殆ど暗くならない。蛇口をひねればお湯だって出るから真冬に米をといでも手は真っ赤にならないし、夏になってもゴキブリと格闘しなくて済むし、秋になっても枯葉は窓を叩かないのだ。
得るものはとても大きい。失うものも、以外と大きい。
要は得失に対して、意識的になる事、だろうか。忘れない、という事、忘れている、という事を自覚しておく、という事、想いだせる状態にとどめる、という事、想い出す機会があったら、それを逃さないようにする事。そんなありふれた対処しか、今のところ思い浮かばない。

―2001 8/21、柔らかい近況

■■■

↑こんな感じで斜めに生えてたオヤシラズ。

1:痲酔して、オヤシラズを覆っている歯茎を、メスでさくっ、と切る。
2:出てきたオヤシラズを、■■■って感じに、きぃ〜ん、縦に削り切る。
3:残ったオヤシラズを、ぐりぐり引っ張って、抜く。
4:抜いた後の歯茎が、ちょっと死んでたので、妙な器具でかちゃかちゃかちゃっ、と掻き出す。
5:歯茎を縫い合わせる。

‥‥で、昨日、縫ってた糸を抜糸。もちろん痲酔ナシ。
1:腫れが退いて、抜いた形に引っ込んだ歯茎。この奥に引っ込んだ歯茎の糸を、ピンセットみたいので、くいっ、と引っ張りあげる。
2:ハサミみたいので、引っぱり上げてる糸を、ぱつっ、と切る。
3:切れた糸を、つるぅん、と引き抜く。
4:以上、1〜3を、糸のぶんだけ繰り返し。

病気の苦痛や治療の痛みって、いつもこれくらいだといいのに。
だって笑えるもん。自分でも。

―2001 8/7、柔らかい近況

最近、仕事に頻発するプチ修羅場。
唐突に忙しくなり、唐突にそうでもなくなり、
こういう不規則な仕事の流れ、というのは、
10年以上この仕事をしてて初めてかもしれない。
そんなわけで今年はお盆らしいお盆はとれない。
こないだ墓参りしといてよかった。
ウチの墓は、海辺にある。
墓参りに行ったら、東京湾が一面、白濁したエメラルドグリーン。
←こんな色。
青潮、というのだそうだ。話には聞いていたし、汚い海に生じる、魚達や貝達が死ぬ、という事も聞いていたが、まさか美しい、とは思ってもみなかったので、少し驚いたのだった。

―2001 8/4、硬い近況

眠りの淵は、終了致しました。
 

―2001 8/1、柔らかい近況

‥‥不吉な徴(しるし)ばかりだ。
もう祈るしかないような気もするし、
祈ったってどうしようもない気もする。
でも祈る以外に私にできる事なら、全部やっているような気がするし、
それでいて、どこかに見落としがあるような気もしないでもない。
逃避ではない祈り。生活としての、労働としての、行為としての祈り。
--そういえば、上のような意味での祈り、というのは、
日本人に特有のもので、日本人以外の人で理解できる人は
実はとても少ない、とどこかの本に書いてあったな‥‥
まぁ、当分の間、祈るように生活する事を試みてみるか。

―2001 7/10、柔らかい近況

経済の事に詳しい訳でもなんでもないんですが‥‥
音響機器でも映像機器でも茶わんでもお酒でも、売ってるものならなんでもいいんですけど、
1万円のものよりイイものは2万円、それよりイイものは3万円、4万円‥と段々に値段が上がっていって、あるところでいきなり、「それよりイイものが欲しいなら300万円」とかなりますよね。
つまり、ものを作るのに手間をかけようとしたら、どこまでも手間をかけられる訳です。
100円で作れる茶わんもあるけど、“理想の茶わんを作る”ためだけに生涯を捧げてる人がいて、その人が生涯の間に20個くらいしか茶わんを世に出さなくて、その茶わんを「何がなんでも欲しい」、という人がいっぱいいるとしますと、その人が作った茶わんは、当然、わけのわからない値段になります。(そのお金が作った人に行かない場合も多いわけですが。)
で、何が言いたいかと言いますと、
デフレってやつが来て、これからは、経済との結びつきが強ければ強いモノほど、そして本来のクオリティが高ければ高いモノほど、そのモノの質は、多かれ少なかれ落ちていく、という事です。
100万円の背広がどうしても着たい、という人が日本に100人いたのが10人になったら、腕をふるいまくってた職人さんは、同じ背広を1000万にしたって多分売れませんから、これからはクオリティをほんのちょびっと落として50万円の背広を作らなきゃならなくなるかもしれません。2年かけて作ってたTVゲームが、コストを削るために1年で作らなきゃいけなくなったりすると、ストーリー、映像、音、プログラム、すべてにおいて、微妙に(場合によったら大幅に)ほころびが見えるものになります。
ついでに、「収益を考えないでやっている」人への風当たりも強くなるかも知れません。本人は命がけでやってても、「ナニ遊んでんだ、そんなにヒマなら稼げ」、とか。要するにクオリティを追求する人の居場所は世の中から減っていくのかもしれません。
100万枚売ってるミュージシャンが、MP3とかのせいで70万枚になったのを怒ってたとしても、「知ったこっちゃねーよ」な人も多いでしょうけど、5千枚売れてたCDが2千500枚しか売れなくなるとしたら、そのCDはもう、発売できないかも知れません。その人は、その分だけバイトの量を増やさなきゃならなくなりますし、その分だけ、身も心も音楽以外に削り取られていきます。それで気が狂って音楽が作れなくなる人もいるかも知れませんし、「売る為の音楽」を我を忘れて“研究”しだすかもしれません。あるいは、深く考える時間など持ちようがないくらい大量の仕事を引き受けて、“大量生産”し始めるかも知れません。
考え出したらキリがないですし、デフレになった方がイイ場合もかなりあるんでしょうけど、とりあえず「お金をケチると、音楽はどうなるか」を、色々想像してみましょう。
‥‥‥‥。

―2001 6/27、柔らかい近況

最近、考え事を多くしている。私は“切り替え”というものが甚だ苦手なので、考え事に耽り出すと、自分でも「ちょっとヤバいかな」と思うくらい耽る。
先日も考え事をしてて、「‥‥・ぁ、そういえば今度の歯医者って、何日だっけ。」と診察券を見たら、予約日を2日過ぎてた。笑えない。
私の場合、考え事と音作りは不可分の関係にあるので、音作りははかどりつつある。
しかし音作りにのめり込むと、どんどん社会に適合出来なくなっていってしまう。宿命みたいなものか。

―2001 5/9、柔らかい近況

--喘息回復中です(多分)。御心配おかけしました。

--過日、開館準備中のストライプハウスギャラリーに行って来ました。開館にはまだ時間が必要なようです。どういう間取りにするか詳しく聞いていませんが、以前のストライプハウス美術館を知っている人からすればちょっとびっくりするほど小さくなる様です。「狭そうに見えてあそこは実はおそろしく広い。あの空間を満たすのは並大抵の事じゃない」という声を美術館時代は周囲で聞く事がありましたが、これからはそういうことは無い事でしょう。

--相変わらずタグをうちうち更新しています。時間があれば“使用している主なシンセ”に E-mu E6400 ULTLA を追加したり、色々したいのですが‥‥
まあ、ぼちぼちやっていきます‥‥

―2001 4/24、柔らかい近況

ここ数日で、色々と自分の身体に関する事で進展というか、変化というか‥があった。
まず、2週間前にここに書いた鍼灸院は、今までに体験した事ない程巧い人で、私が“鍼が体に合わない”旨伝えると、何やらボールペンのような器具をとりだして、チクチクと私の体を劇的に治してゆく。
で、何が起きたかというと、喘息が再発した(らしい)
そもそも腰痛が全く深刻になった時(5〜6年前になるか)、どうして喘息がピタリと止んだのか判らなかったが、腰痛が良くなるのと入れ代わりに喘息が再発するのも訳が判らない。鍼灸師氏は「今までの症状を逆に辿って快復して行くんです」と、これまたなんだかすごい事を言っていた。今、少々風邪気味なので、風邪と一緒に喘息も治ってくれればいいのだが‥このままだったらかなりシャレにならない。
いずれにせよ、喘息がツラいので、近所の内科へ。「風邪かどうかは判らないが、喘息は喘息だな。」と言われ、去痰剤と気管支拡張剤をもらう。その時、腰痛用に外科から痛み止めを貰って飲んでいるけど一緒に飲んで大丈夫か、と尋ねると、「なんて名前の痛み止めか」と言うので薬の名前を言うと、
「今日の新聞にのってたぞ。その薬、長期使用で深刻な腎機能障害をひき起こすから、厚生労働省が供給差止めにしたって。」
1999年末、ずっと血尿が止まらなかった原因は多分この痛み止めだろう。
それにしても、何年もそういう痛み止めを処方してて、血尿出たと言ったら泌尿器科に紹介状を書き、泌尿器科は“IP”(2時間くらいかけて腎臓のレントゲンを撮りまくる)やら、人生観が変わるくらい猛烈に痛い膀胱内視鏡やら細胞診で、結局「わかんない」って止血剤だけ‥‥って、その痛み止めが長期使用で腎臓に来るものだって事は元々有名だったって新聞に書いてあったけど誰も気付かないってのはどぅゆぅこっちゃ‥と思ったリもする‥‥ついでに書くと、耳たぶにアテローム(っていう良性腫瘍)がいっぱい出来るようになったのも痛み止めのせいと考えて差し支えないだろう。耳たぶと腎臓の関係についてはW.ホルツアッペルって人の書いた「体と意識をつなぐ四つの臓器」っていう本に出ていた。(この本は仙台の医師氏がメールで教えてくれたのだった。)
さらに(長いな‥)、内科がくれた気管支拡張剤(錠剤タイプ)だが、心臓にキョーレツな副作用が来て、動悸と胸痛でどうしようもない。たまらんので自己判断で量を減らす。その際、「医者からもらった薬辞典」を開いてみたら、そもそも気管支拡張剤は交感神経に気合いを入れる薬である事を知る。自律神経がグダグダなのは子供の頃から気管支拡張剤を飲みまくり、吸いまくってきたのも大きな原因のひとつなのだろう。
まあ、いずれにせよ、かなり色んな事が分かった数日間だった。
咳のしすぎで頭が痛い。心臓も苦しい。風邪と一緒に喘息もどっかにイってくれ。たのむから。あと、腰痛もこの調子で治ってくれ。痛み止めはもう飲まずにいたいから。オネガイシマス。

―2001 4/4、柔らかい近況

ものすごい鍼灸名人(禅僧)に出会う。

―2001 3/13、柔らかい近況

ぁぁあぁ、ぃそがしぃ。

―2001 2/21、柔らかい近況

考える事が多すぎて、言葉が生命を持てない‥‥

―2001 2/7、柔らかい近況

どうしようもない事もある。
いくら頑張っても、自分で自分に無理強いしても、
出来ない事もある。
そういう時、つい自分に向かって「お前は本当に限界までやったのか?」と問うてしまう。
しかし、実はやり方が間違っているのかもしれない。
一生涯苦しみぬけばいいとは限らないのだ。
自らの生命力を、適切な方向に向ける事。
実はこれこそが、現在最も困難な事なのだ。
救いというものは、存在しない、
救われる、という事はあり得ない、
永い時間をかけた末に、そう実感した途端に、
救いに少し似た何かが発動する事がある
それは何を待っていたのか。それはどこに居たのか。
そしてそれは、
信用しても良いのだろうか。
何かが目覚める。何かが眠りに就く。
進む事は退く事。登る事は落ちる事。
意識的である、という事は、無意識的である、という事でもあり得る‥‥

―2001 1/30、柔らかい近況

忙しいのは有り難い事ですが、
心身共に、公私共に、最近ちょっと忙しすぎてます。
こないだ、軽〜くぶっ倒れました。30分くらい。

―2001 1/17、柔らかい近況

LFO2個。モジュレーション行き先自由。
サンプラー買っても、結局“元波形を変えられるシンセ”として使ってしまう。
アリモノ音色でとっとと作れないのは、もう性分です‥‥

―2001 1/9、柔らかい近況

多くの矛盾を抱え、なおかつ意識をクリアに保ち、
保ちつつ心身を崩壊させずにいるにはどうしたらいいだろう。
集中力と、注意力。
答えは結果の側にしか無いのかもしれない


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