文章リスト
2002年の近況選

―2002 12/4、柔らかい近況

ステレオラベリアマイク(超小型ピンマイクのステレオ仕様)3個目購入。
これも音が悪い。
通常「高音質」をうたって販売しているステレオラベリアマイクは、
売り値で¥4000〜¥7000だが、
これら3個分(2万くらい)で、
いいものがあればそれで済むのに。
「安物買いの銭失い」という言葉は、もう死語になったのだろうか…?

―2002 11/19、柔らかい近況

屋外の音の録音〜サンプリングのために、
音の良いステレオの超小型ピンマイクが欲しい、と思う。
で、\7000位で1コ買って来る。
使ってみて、「あ、この程度の音質で十分だ」、と思う。
が、1〜2ヶ月ほどで、ケーブルがぼろぼろになって銅線がむき出しになってしまう。
銅線がむき出しになったケ所をガムテで巻いても、
ガムテで巻いた両脇から次々にケーブルがぼろぼろになって行く。
たまりかねてネットで検索したら、
そのマイクのメーカーから、同じ定価で後継機種が新発売されている。
また\7000位で買って来る。
中を開けてみると、ケーブルが布張りになっていて、とても丈夫そうだ。

「きっとケーブルが ダメだって苦情がたくさん行ったんだろうなぁ、
コスト下げるのに気をとられてケーブルをダメなのにしちゃったんだろうなぁ、
それでケーブルを丈夫にしたのを新発売したんだろうなぁ」

と、しみじみ思いながら使ってみたら、
こんどは音が悪い
ポータブルMDとかにオマケでついて来るピンマイクよりちょっとマシな程度。
同じ定価でケーブルにコストかけちゃったから、マイク本体の性能をケチったんだろうなぁ…
…デフレっていやだなぁ…‥
って、デフレで本当に本当に困っている方々にはなんだか申し訳ないですけど

―2002 11/12、柔らかい近況

久々に体調が良くて、
一日中ぶっ通しでシンセいじる暮らしをしてたら、
数日目の夜、久しぶりに金縛りにあった。
そうか。脳に無理がくるか。

―2002 11/5、柔らかい近況

先日、とあるダンスのオムニバス公演を観に行った。
知人を含む5組くらいのダンスカンパニーが連続で公演したのだが、
その中に私の曲を使ってる公演があった
知人に「●番目の公演、あれ、俺の曲だよ」と言ったら、
「紹介しようか?」と言われたが、
結局紹介してもらわず、帰って来てしまった。
ああいう場合、どういうリアクションをしたらいいのか?
小規模なインディーズのダンス公演で、CD使った人に「使用料くれ」とか、
「著作権人格権どうしてくれる」とか、
そういう事を言うつもりは(私の場合)ないのだが、
名刺出して、トモダチになって、シゴトのコネにして行く、
という「営業力」が自分には欠けている。
もうはるか昔から判っている自分の欠点。
まあ、向こうは向こうで、あの時「初めまして、舟沢です」と言われたら、
さぞリアクションに困ったろうとは思うが。

〜追伸〜

いかなる例外もなく「カネ払え」「著作者に許諾を得よ」を行使するわけではない音楽家が、
日本国内に存在すること事体を激怒する作曲家の方々も沢山います。
舟沢もその気持ちは解ります。 (この気持ちはこの立場にならないと解らないかもしれません。)
ですから、くれぐれも上記を読んで、「なぁんだ、勝手に使っていいんじゃん」とか思わないで下さいね。

―2002 10/8、柔らかい近況

ネオシーダ(薬局で売ってるタバコ状に火をつけて吸う薬)やら、
ニコチンガムやら、病院で処方箋書いてもらって買ったニコチンシールやら、
2年以上もがき苦しんだが、
禁煙失敗
思うに、「酒をやめる」といっても、比較的簡単な人と、
深刻なアルコール依存症の人があるように、
ここまで苦しんでダメだった私は、
重度のニコチン中毒なのだろう。
禁断症状も、禁煙の本に書いてないものがかなり出たし。

…タバコ吸ってて、得する事は何もない。

―2002 9/18、柔らかい近況

夢のない眠りから唐突に目覚める。
不安に追われて働く。
ふと時間があく。
不安にかられて新しいソフトのマニュアルやら、苦手なものの修得やら。
体調が警告を発すれば、容赦なく休む。
横になっている間も、マニュアルは手放さない。
うちに帰る。
不安にかられてシンセに向かう。
そのうちに明日の朝が不安になって、ベッドに入る。
まるで停電のように、唐突に眠る。
それでも、常人の足元に、どうしても届かない。

自己否定は肯定しきれないし、
自己肯定は否定しきれない。

絶えざる自己破壊が必要なのだが、
自己破壊に嫌気がさして、こういう生活を選んだのではなかったか。

道が見えない。
見えないのではなく、「無い」のではないか、と思う。
無い道を歩いて来たつもりだったが、
無い道ははじめから無く、これからも無いのかも知れない。
「自分の道は自分で作る」というのは、
“若者”の柔らかい空想に過ぎない。
道が無い、というのが道なのかもしれない。
私が歩いたあとにも、道は無い、かもしれない。

先日、髪を切りに行って、
美容師に「お疲れさまです」と挨拶してしまった。
私は私が思っているより疲れている。
しかし、私は私が思っているより怠けている、かもしれない。

―2002 8/11、柔らかい近況

とある非常に高名な作家さんが、
「あなたはなぜ詩をかかないのか」と訊ねられて、
「時間給が減るからだ」
と答えているのを、テレビで見た事があります。
もうずっと昔の話ですが、
その言葉について今も考え続けています。

―2002 7/30、柔らかい近況

最近、直感を突き詰めていくと、
「もうすぐ“詩的な時代”がやってくる
と確信する瞬間が来る事があります。

ここで言う“詩的な時代”というのは、
詩集が売れるとか、詩の朗読会が盛況になるとか、
そういう意味ではありません。
ゲーテが戯曲「ファウスト」の冒頭で、芸術を“道化”と“詩人”と“座長”の人格に分けて登場させていますが、その時の“詩人”のような意味での、詩的なるものです。
(「ファウスト」は岩波文庫から出てます。)

でも、頭で考えると(つまりその直観を悟性で捉えると)
「これからは、詩的なるものがますます深く沈黙する時代が来る」
と考えざるをえなくなってしまいます。

なので、この直観を文章にして、「文章類」に載せようと思ったんですが、
かなり長く書いても、うまくまとまらないのです。
なので、ココにこうして簡単に書きました。

―2002 7/22、柔らかい近況

精神疾患のかなりのケースは、
その人の心が病んでいるというより、
周囲の人々と病を共有出来ないか、
心の病の感染源となる保菌者が周囲にいるケースが多いのではないか。
風邪はうつしても治らないが、
周囲に病的な心をまき散らして心の健康を保っている人は以外と多い。
また、特定の思想、信条、気分等々が病として猛威をふるっている時代/地域には、
常にその犠牲者があらわれる。

つらいけれど気をつけなければならないのは、
病をまき散らして自分の健康を保っている人が、
自分がそんな事をしているとは思いもよらないのと同じように、
“犠牲者”もまた、気付かないうちに他人に病を投げて健康になっていたりする事だ。
そうかといって、「自分だけは他人に病をまかずに生きて行こう」なんて決意しても、
そんな事死ぬまでやり通せる保証はどこにもないし、
なおひどい病を、なお無意識に周囲にまき散らす事が多いのは、
心理学の世界では常識のようだ。

自分の病の原因だけでなく、
自分の健康の原因、病んでない部分の原因を考える事。
その残酷な作業もまた、私達を導く事があるのだ。

―2002 7/9、柔らかい近況

本当にひさしぶりに、
青い空を見た。
風が木々を鳴らしていた。
何年ぶりだろう。
こういうの、すっかり忘れていた。

―2002 6/18、柔らかい近況

私が子供だった70年代頃は、
満員電車の中でもタバコを吸う人はいたし、
酔っぱらいは「最近の若ぇモンはテメェの女房も殴れねぇってんだからなぁ!!」
なんて叫んでました。
テレビでは年老いた俳優さんなんかが、
「最近の若者は鍛えられてませんなぁ〜。
私の子供の頃はよく 朝まで木に吊るされたもんですがなぁ〜。」
なんて自慢気に言ってました。
世の中はひどく混乱してますが、
何もかもが悪くなってるわけでもないようです。
私達はそれを忘れがちなので、自戒をこめて。

―2002 5/26、柔らかい近況

●“機会費用”と“説明責任”を精神活動に適用する今日の社会の恐ろしさ。それを避ける事は一方で死を意味し、それを避けない事はもう一方で死を意味する。究極の選択。
●社会/共産主義は、資本主義の副作用から脱するために考えられ、コケた。
●HSPとADHDはどうやって共存するか。
●それにしても、これは衝撃だった。これは忘れ去られるべきものなのか、持ちこたえるべきものならば、そもそも持ちこたえることは可能かどうか。
●“あたらしき人”は小さく弱い。
●“あたらしき人”になるのはほとんど誰も逃れられないが、“あたらしき人”はほとんどだれもが、殺される以外にない、かもしれない。
●闇夜に音をたてる桜の葉。
●視力が落ちて来た。
●エドガー・エンデ。フランツ・カフカ。知覚のみで成立する場所、理解はできるが解釈は出来ない場所を、常に持っていなければならないのかもしれない。それにしても、それがこれほど集合意識に憎悪されるのはなぜか。解釈できない事への苛立ちでは決してない。憎悪する側は、憎悪する理由どころか憎悪する対象の存在も、憎悪しているという事実も知覚していない。

――忙しいので、以上、最近考えている事を、まとめずに、ただ単に列挙してみました。

―2002 5/14、柔らかい近況

最近、NHKでものすごい深夜に、「音紀行」という3分の番組をやっていて、
ビデオに録って見ています。
こういう番組、もっと欲しいです。
ほかにも、「音のある風景」とか、毎週やってるわけではない(らしい)のですが、
とてもいい番組だと思います。

―2002 5/7、柔らかい近況

20世紀の芸術家を見てみると、
かなりの時期、かなりの地域において、かなりの芸術家が、
自分の創作活動と、政治的行動との区別がついていない。
そこだけを見ると、ついつい「なんで?」と首をかしげてしまうが、
“作品に現在の自分の所属する国家の体制を讃えるケ所を入れないと逮捕されてしまう”とか、
“権力を持っている人達に「 現在の国家の体制に不満を持っているかも知れないなぁ」と思われるだけで、殺されてしまう”とか、
その芸術家の生きていた時と場所が、そんな状態だったりする。
“政治”という、芸術とは本来関係ない(関係するべきではない)論理が、
もの凄い勢いで芸術にも侵入してきたのだ。
〜〜〜
ところで、そういった芸術家達のおかげもあって、
自分の作品と“政治”を概ね切り離すことができるようになった、
今を生きている私達。
ずっと後の時代になって、やっぱり、
「なんで?」
と思われる部分があると思う。
「●●を●●と思わなければならない」とか、
「●●を●●と感じなければならない」とか、
「芸術家も●●のように行動しなければならない」 といった事が、
今、もの凄い勢いで私達にのしかかって来ている。
そして、「そう思わない」「そう感じない」「そのように行動しない」事が、
自分の身を少なからざる危険にさらす。
政治以外の論理でも、芸術に侵入する事は、もちろんあるのだ。

今、これを読んでくださっているあなた、
あなたがたとえ芸術家でなくっても、
無関係ではないはずです。
人間の精神生活の論理に由来しないものが、
人間の精神生活に侵入してくるという事がどういう事か、
どうすればそれを、ある程度でも防げるのか、という事です。
それはむしろ、私達一人ひとりの中に必ずあって、人間の精神生活の論理とは違う、
侵入してくる側の論理で考えた方が、
問題を特定しやすいのかもしれません。
この問題が難しいのは、
私達一人ひとりがむちゃくちゃ弱く、
十人や百人集まってもけっこう弱く、
もっと集まると、弱くなくなって行く代わりに、
弱い一人ひとりが自分を見失って、ヤバくなって行く所にあります。

途方に暮れたってしょうがないのですが、
しばしば途方に暮れてしまいます…

―2002 4/9、柔らかい近況

“競争”と“共生”の統合。
ふと、「無理なんじゃないか」と思ってしまうくらい難しい。
最近では、人と人から国と国まで、
よくよく見ればほとんど“競争”と“共生” の歪みからひどい事が起きている。
それなのに、救命ボートから一人ずつ突き落として行くような行為や、
突き落とされた人を指差して笑って楽しむような行為や、
そのような行為を「正当な事だ」と興奮しつつ得意げに語るような行為を、
煽ったり、奨励したりするべきではないと私は思う。
「“競争”と“共生”の矛盾を統合しなければならない」、
と言葉にしてる人は決して少なくないのだが、
そういう言葉は、想像していたより、ずっと届いていないらしい。

―2002 3/26、柔らかい近況

最近心身がすっかり疲弊してしまっているので、
仕事以外ではあまり音楽を聴かず、
休む時は空調の音をじっと聞いています ‥‥

―2002 1/30、柔らかい近況

非常にキツい日々が続いています。
多分、今年に入ってから、過去5〜7年間の5〜7倍のスピードで時間が流れてます。

“忙しさのせいで抜け落ちていく事柄”の中に、
大きな花を咲かせる種子があるのかもしれませんが、
全然余裕がありません。

―2002 1/15、柔らかい近況

今年は、舟沢にとって試練の年になりそうです。
私の心身がどこまで堪えられるのか、やってみないと判りませんが、
やれるだけやってみようと思います。

私は最近、21世紀の人間の主な仕事は、矛盾を苦しむことだと思うようになりました。
特定の思考、特定の感情、特定の行動は、どれも特定の責任を伴うものですが、
特定の不思考、特定の無感情、無関心、特定の不行動、
場合によっては特定の無知すらも、責任を伴うものだ、という事も、
私達の多くが思い知ってしまいました。
「信仰から認識へ」、とは19世紀末から言われ続けている言葉ですが、
その結果必要となるトライ・アンド・エラーの多さと、その一つ一つの深刻さは、
個人レベルでは20世紀の比ではないでしょう。
「“依って立つべき一点”を自分自身の中に見いだせるか」、という問題は、
これはこれで、私にはゴールのない、プロセスのようなものに思えて来ました。
「あ、これだ」と思っても、
見失ったり、
後々になって嘘が混入しているのに気付いたり、
常に意識している内に硬化して、深刻な状況に陥ったり、
自分の人格の中の思いがけない特性が反乱を起こしたり。
個人個人がもがくこと。そのプロセス。
言葉で言うと、こんなにも軽々しくなってしまうのですが。


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