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音の内外と東西


―書き上げてみて思ったのですが、この文章は、
ある考察に対する序論のための、
序論の序論の序文、のようなものであります―

前々から思っていたことだが、
音には“外側”と“内側”があるようだ。
私が知らないだけで結構知られてることかもと思って色々検索をかけてみたが、私に聴こえてる“音の内側、外側”に該当する記述は見つけられなかった。
はっきりと意識したのは、先日、とある現代音楽のコンサートを聴きに行った時。
クラシックの高名な演奏家の方と、普段は(おそらく)西洋音楽とは無縁のお坊さん達が、
フレーズとも呼べないような音を発して共演するさまを、見て、聴いた時だった。
コンサート会場で、若いお坊さんは、苛立っているように見えた。
二人のお坊さんが様々な鳴り物を交代のように「ぽく」「かん」「こん」と鳴らしていくのだが、相手が間違えたか何かのようで、もう片方のお坊さんを不機嫌そうに睨み付けながら、木魚を「ぽく。」と一回叩く。
にも関わらず、その「ぽく。」という音の、
内側に全てがある。
全てとは、全て。他にいいようがない。過去も未来も、人も仏も、樹々も星々も。宇宙の全て。それが、こう言ってよければ、“どうってことない若いお坊さんが不機嫌に叩いた木魚一回”の内側に広がってるのだ。
内側とは、内側。他にいいようが無い。詩人が口にする“向こう側”でも美学者が口にする“内実”でもない。音を発した人や、(おそらくは)曲を作った人とは全く無関係に、“音自体”に内側があって、そこに何もかもが広がっているのだ。
これは、例えば法事かなんかでお坊さんが鳴らすものを聴いててもなかなか意識化できない。私も、西洋音楽の修練を積んだ方が、ちょうど比較できるように同じ舞台で演奏しているのを聴いて、やっと確信することが出来た。
お坊さんの「ぽく。」という一つの音の内側に全てがあるのに対して、一流の西洋音楽の打楽器演奏家の方が、物凄い気迫で、一回一回が一切と言わんばかりの渾身の意思をもって、「カン!」と一回音を出すと、その音の瞬間だけ、
何もかもがなくなるのだ。
そして、お坊さんが出す音とは逆に、音を鳴らした途端、
音を鳴らす前の静寂と音を鳴らした後の静寂が生命を帯びてくる。
これは、音程に対してもそうであるようで、西洋音楽の場合、「ド」と鳴らすと、「ド」以外の全ての場所に宇宙が広がり始める。ところが、お坊さんの御詠歌などを聴いていると、何もかもが、音程の内側に、いわば音程に包み込まれるように存在しているのだ。

ケージの「4′33″」を知ったとき、
「なんと。無音で音楽を作るとは。」と驚いたものだったが、
後々知るに、ケージ氏ご本人としては全く逆に、
「無音というものは実在しない」という考えに意義を見い出されていたようだ。
禅を修め、極限まで東洋を目指し、たどり着いたところが、
東洋人の感性と真逆であった、ということ。
(東洋人の私は、無音は実在する、但し、莫大な意思エネルギーを使わないと、音を使わずに無音を出現させるのは無理だ、―そのように思っているのです)

じつはまだ、東洋と西洋の壁は崩れ去っていないのかもしれない。

ちなみに、音の内と外が曖昧だったり、内と外でぜんぜん違うことが同時に起きている音なら、時折聴くことがある。
西洋音楽を修めた、邦楽の皆様の出す音の中に。
―このことは、希望か、落胆か。

いずれにせよ、これはまだ、殆ど考察されていない事柄のようだ。
これから考察が始まるのかもしれないし、
考察を始める前に、グローバル化の中で、人々の耳からかき消されていく事柄なのかもしれない…

(C)2008 Mushio FUNAZAWA
2008 3/24 初稿以前の試験稿を某MLにupload
2008 4/7 初稿 upload

2008 4/11 推敲


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