理解と免疫
 

何かものごとを理解する、というのは、
たとえそれが不完全な理解であったとしても、
実は、しばしば凄まじいエネルギーを要する。
理解そのものが、従来の自分の意識体系を、多かれ少なかれ破壊するからだ。
だから例えば、自分に都合の悪い考えは、意識に昇らずイメージとなって夢に現れたりするし、
そのイメージすら都合が悪ければ、夢自体も忘れてしまう。
私達には、“何かを理解する能力”と同時に、“何かを理解しない能力”が備わっているのだ。

何かを理解するという事は、多かれ少なかれ従来の意識体系が破壊される、という事なので、急激な理解は自我を崩壊の危機にさらす。
だから私達には“自分にとって都合の悪い考えから意識をそらす”能力がそなわっている。
それは、いわば白血球が菌を殺すような、自分では意識できない機能だ。
だから、自分にとって都合の悪い考えを意識に取り込むという事は、いわば、
『自分で自分の免疫を外す』
ような行為となる。
だから、完全にできる人は多分いないし、全然できない人はとても多い。

“自分は何を知りたいか”ではなく、“自分は何を知りたくないか”を、
私達は一体どこまで正視できるのか。
あるいは、そもそも正視しようと意思する事が出来ているのか。
◯◯は△△である、というような事を、
「理解しない為に生きている」ような人や、
「理解しないでいるためなら命だって投げ出す」ような人も、全然珍しくない。
かといって、『他人の免疫を軽々しくはずす』事が一体どういう事なのかは、言うに及ばない。
むしろ、他人の免疫をはずしたくなる衝動が、自分の内面のどこからやって来るか、その場所を自分で正視出来ているかを、まず自分に対して問うべきだろう。
限界はある。だが、個人個人がそれぞれ自分の奥にある、免疫に守られた“原理主義的”とでも言うべき部分を見つめようとしない限り、人間は、多分、自力では前に進めない。
言い換えると、自由になれないのだ

2001,9/13 初稿
9/25 推敲
11/14 推敲


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