文章リスト
2004年の近況選

―2004 12/20 、柔らかい近況

先週書いたインフルエンザの予防注射痕が痒くてしょうがない件、
1週間ほどでだいたい良くなりました。(まだ少し痒いですけど)
来年また打って、“2度目に来るナントカっていうひどいアレルギー”とか出なければ、
まあ問題ないでしょう。

今年はアルバムを3枚作り、
8年ぶりのライブをやり、
大がかりな舞踏公演に関わり、
夏以降はひたすらPCと闘っていました。
なんだか、一年前が大昔に思えます。(それこそアルバム「否定の果て('92)」を作ってた頃より昔の気がします)
随分ひどい目にも遭いましたし、
のたうちまわってるうちに一年が過ぎてしまった感じですが、
もしかしたら何年かして、
「今思えばあの頃はいい時期だったんだろう」
と思うのかもしれません。なんとなくそんな気がします。

―みなさん、よいお年を。

―2004 12/14 、柔らかい近況

インフルエンザの予防接種って効果があるのかないのか、
「多少は効くんだ」とか、「いやアレは製薬会社の陰謀なんだ」とか、
色々言われていますが、
とりあえず昨年の年末年始、病院が閉まった状態でまるっきり症状が快方に向かわず、
「このまま孤独死するんじゃねぇのか」
と思うような目に遭ったので、
「自分の身体にインフルエンザに対しての自己治癒力は期待出来ない。去年くすりを貰うまで10日以上全く快方に向かわなかったということは、今でも自分に抗体は出来ていないに違いない。」
と判断し、予防注射打って来ました4千円。
あっけにとられるほど痛くなかったです。新型の注射針だったかもしれません。

ただ、打たれたところが痒くて痒くて仕方ありません。腫れてます。
何なんだこれ、と思って検索かけたら、アレルギー反応の副作用みたいです。
痒いくらい我慢すりゃいいんですけど‥痒い以上の症状ってこれから出ますかね?打って5日経ってまだ痒いんですけど。
大丈夫ですよね‥多分…

―2004 12/7 、柔らかい近況

最近重い話が続きましたので、たまには軽い話を。
「夜中にトイレのドアを開けて、何がいたら一番怖いか?」
という話になったら、人によってものすごい違いが出て面白かったです。

「‥双子の少女。」

「‥包丁持ったおっさん。」

「‥熊。」

‥自分。

―2004 11/30 、柔らかい近況

私は、自分の曲のタイトルには大いにこだわるし、
しばしば曲とタイトルが不可分だったりするくせに、
他人の曲となるとあまり曲名を気にしない。ちらっと目を通す程度だ。

―若い頃、たった1枚の10インチアルバム(25センチくらいの変則レコード)と、オムニバスに入っている1曲だけでほれ込んだ作曲家がいて、
他にこの人の曲は聴けないものかと探しているうちに、
レコードがCDにとって替わり、インターネットの時代が来て、
その人がロサンゼルス辺りで音楽学校で先生をやってるらしい事を検索で知り、
さらに何年か経って、その人のアルバムが発表になった。ネット通販で購入。

はじめ、「20年位待ち続けたアルバムにしてはちょっとがっかりかな」と思っていた。
だが、ここ数ヶ月のドタバタのおかげで、私の中で音楽に対する強迫観念が一時的に消えた。(音楽家というものは多かれ少なかれ、音楽を聴くときに常に強迫観念に駆られて、どんな技術でどんなことをやってるかを分解しながら聴き取ろうとするものなのです。私のような下のゲの人間でもです。)
心の中が無音になってはじめて、その音楽は私の中で響き始めた。

この曲は‥人生に疲れ果て、雨にも降られ、それでいて途方もなく静かで‥私だったら‥‥そうだな、「救いのない雨」というタイトルにでもするかな。
この曲なんていうタイトルだっけ、とジャケットを見たら、直訳すると、

「私はそれを雨の中で聞く」

というタイトルだった。
こういうことは、私にとって非常に珍しい。本当に珍しいことだ。
思考を経由しない地下水脈が、どこかで通じているのだ。
私はこの人と、生涯会うことはないのだろうと思う。
仮に会う事があったとしても、話が合うとは限らない。むしろ逆のような気がする。
それでもこういうことは起きるのだ。

―2004 11/23 、柔らかい近況

時代は音楽を動かさない。
音楽は時代を動かさない。
あり得ない現実。あたりまえの事実。

人は音楽をまだ動かすだろうか。
音楽は人をまだ動かすだろうか。

―2004 11/16 、柔らかい近況

同じ駅で、同じ電車を待っていたら、
今度は自分の手からぼとぼとと血が流れ落ちるヴィジョンに襲われる

「秘儀はセントラルパークで行われる」とか「秘儀は歌舞伎町で生じる」とか言うとき、
私は“秘儀というものは特定の場所で儀礼的に行われるものではなくなった”という意味に受け取っていたのだが、
どういうわけかあのプラットホームは、最近の私にとってある種の“聖地”になっているらしい。
そのヴィジョンのあと、強いて言葉にすれば“自分が物質と同一化した”とでも言うような感覚が数時間続いた。
風が吹いてもその風は自分の内部を吹き抜けていく。肌を伝わない。
雨も樹木も電信柱も、自分の内部にあるようなあの感覚。それに伴う独特の無感情。
驚きも感動も自我肥大もなんにもない。“素”ですらない、あの無感情。

―2004 11/9 、柔らかい近況

 じっと癒えるのを待っている。
ほんとうに病むのはこれからなのに。

―2004 11/2 、柔らかい近況

私は、読んだ本の8割9割は捨ててしまう。
だから、「朝、キャベツ畑を見てたら自分が何をすべきか判った」と書いたのが、白洲正子だったか青山二郎だったか小林秀雄だったか、他の誰かだったか、もう思い出せない。

夕暮れ時のプラットホームを歩いていて、ふと立ち止まる。
足元に灰色の羽が落ちている。
鳩にしては大きい羽だ、と自分の靴と灰色の羽を見ていて、
突然、フラッシュバックとも眩暈とも理解ともつかない烈しい感覚に襲われる。

羽が語りかけている。いや、羽を通して何かが語りかけている。
その言葉ではない言葉を無理やり言葉に翻訳すると、大体以下のようになる。

「お前は、すなわち私は、本当は何をすべきなのか。
そのことを、お前は知っている。それはこれだ。思い出せ。」

よろめきながら電車に乗り込み、「これ」について考える。
「これ」を言葉に翻訳することは、どうしてもできない。

―自分がこの地上で何をすべきか判ってしまうと、
この社会で、この世界で生きていく事が甚だ困難になる。
「若いうちに天命なんか知るとロクな事はない。天命を知るのは遅ければ遅いほど良い。老人に近くなってからで良い」と書いたのが誰だったか、よく憶えている。その本も捨てずにとってある。
だがその著者は、早くに知ってしまった人間に、いかなるアドバイスも記さない。
おそらく、アドバイスのしようがないのだろう。

この感覚に襲われるのはこれで何度目だろうか。最後に襲ってきたのは何年前だったろうか。
思い出せない。

―2004 10/27 、柔らかい近況

ソフトの説明書と一篇の童話では、どちらがより良い音楽につながるのか。 
PCのマニュアルと一冊の画集では、どちらがより良い音楽につながるのか。
OSの検証と雲の行方を見続けるのは、どちらがより良い音楽につながるのか。

―どちらでもあるし、どちらでもない。
自由である事には、しばしば選択の余地がないのだ。

パソコンや周辺機器やソフトの使い方の本ばかり読んでいる。
そういう時期なのだろう。そしてそれは結局、自分で選んだ事なのだ。

―2004 10/19 、柔らかい近況

 まっすぐ届く秋の太陽。

―2004 10/13、硬い近況

japanoise.netというサイトに、エッセイ「ノイズから始まっている」が掲載されました。直リンクはこちら

―2004 10/13 、柔らかい近況

 真っ黒な空が騒ぐ。
過去よ。未来よ。
たのむから静かにしてくれ。

―2004 10/5、硬い近況

当HPには機械的な事に興味のある方と無い方がおいでになりますので、
いままで書いていた分もまとめて、
「OS9〜WinXP移行日記(駄文)」というページを作りました。

―2004 10/5 、柔らかい近況

 私は確かに、空が少しだけ明るむのを見た。

―2004 9/ 28、柔らかい近況

救いのない、まっすぐな雨。

―2004 9/ 21、柔らかい近況

 9/21の柔らかい近況は「OS9〜WinXP移行日記(駄文)」に移動しました。

―2004 9/7、柔らかい近況

 9/7の柔らかい近況は「OS9〜WinXP移行日記(駄文)」に移動しました。

―2004 9/1、硬い近況

トップページ無題詩を更新しました。従来の無題詩は無題詩削除録にあります。

結構大きめの文章を執筆し、某サイトに寄稿しました。
そのうち掲載される事でしょう。掲載されましたらお知らせ致します。

―2004 9/1、柔らかい近況

先日のライブに来てくれた20年来の友人が、
「何が凄ぇかって、8年ぶりのライブでも全然変わってねえ事だな。」
と言っていた。

デジタルノイズなんて初めて使ったし、ダンパーペダルなしで初めてやったし、
アルペジエーターなんてライブで初めて使ったし、リバーブなし(ディレイのみ)のライブも初めてだったんだが、聴く人にとっては大した違いじゃないようだ。(もちろん、彼の“耳”はしっかりしている。)

「どんなものでも突き詰めると皆似通って来る」と言うジャコメッティ的なあり方に未来のヒントを見る人がいる。
「21世紀はバロック的な時代になる。バロックの語源は“ゆがんだ真珠”。しっかりした中心の無い、多中心に移行して行く」という人がいる。

――どっちも合っているような気がする。
つまり、「どんなものでも突き詰めると似通って来る」というあり方も、沢山ある中心の一つなのだろう。

私は今、自宅のシステムを思いきって変えようとしているが、新しいハードやソフトに苦労して適応して、新しい音を追求しても、結局のところ、“大した違いじゃない”のだろう。
だからって今のままのシステムというわけには行かない。機械は壊れるものだから。

―2004 8/18、硬い近況

使用している主なシンセ”に「microKORG」を追加しました。

―2004 8/18、柔らかい近況

「PAシステムの無い、画廊のような空間で思うようにライブをやるのは、今のままでは大変すぎる。どこかにものすごく音の良い、軽くて丈夫な、可搬性の良いマトリクススピーカーはないだろうか。できればアクティブ型(パワーアンプ内臓型)で、5Kg位で、100ワット位鳴らせるやつ。シンセ込みで、まとめて電車で持ち運べるくらいの大きさで。」

と思いはじめて、もう14〜15年くらい経つ。

そもそもマトリクススピーカー自体が発売されない。

何年かに一度、「いっそ自分で調べて、パッシブタイプのやつを作るか‥?」と思う。

思うだけで終わる。

スピーカーやグラスウールを買って来て、不器用な私が木工して、運べるように金網を貼って、塗装して、それがまともな音になるとは思えない。(フルレンジになるだろうし。)

秋葉原の自作スピーカーのお店なんかに行くと、顔がゆがむくらい変な音のスピーカーがデモで鳴ってて、オーディオオタクの人々が「自然な音ですね〜」と幸せそうに語り合っている。
ふと、自分も十代の頃はあんな感じだったかもしれないと思う。恥ずかしさで身震いする反面、あの音で幸せになれる人々が羨ましくもある。

ミュージシャンが数人集まって、「こういう機材が欲しいんだがいいのはないか」という話になると、だいたい全員「あ、俺も探してる」という話になる。

マトリクススピーカーを探している人間はさすがに私だけだが、「音の良いステレオラベリアマイク」、「非圧縮で1Gくらい録音できて、マイク端子の付いた超小型プレーヤー/レコーダー」「昔のオーラトーンみたいに劇的に小さいパッシブモニタースピーカー」等々、話題になるものは大抵みんな「俺もずっと探してる」という話になる。

世の中にはモノが溢れているというのに。

―2004 8/11、硬い近況

ライブは終了致しました。お越し頂いた皆様、ありがとうございました。
このライブは、舟沢自身にとっても、非常に貴重な体験となりました。
このライブの実現に向けて動いて下さった皆様にも、この場を借りて感謝申し上げます。

―2004 8/11、柔らかい近況

今年に入ってから、CDを3枚作り、舞台に参加し、ライブも1回やって‥と、
これは従来の舟沢の活動ペースからすると、常軌を逸したスピードで生きていたことになります。
(寝ても醒めてもイライラ、ギリギリと歯を食いしばってシンセに向かっていた若いころでも、ライブは年1回、CDは2〜3年に1枚でしたから‥)
それだけ健康状態が改善した、という事でもあるのですが、さすがにちょいと疲れました
今後しばらくは大きな予定はありませんので、シンセに向かったり、レコーディングしたり、文章を書いたりして過ごすことにします。(バイトも今年後半はキツそうですし)
でも、何があるか判らないのが人生ですので、急に何か決まったりしたらここでお知らせ致します。

―2004 7/20、硬い近況

トップページ無題詩を更新しました。過去の無題詩は削除録にあります。

―2004 7/20、柔らかい近況

ひどいジャメヴに悩まされている。
何を聞いても、何を見ても、その意味が判らなくなるこの苦しみは、
なってみなきゃ判るまい。

―2004 7/6、柔らかい近況

知らないうちに、
「未来の舞踊」笠井叡著

が出てる。
はやめに取り寄せよう‥

―2004 7/1、柔らかい近況

お金の計算をしなければしないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
配線や設定について考えないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
ケーブルの断線や電源の心配をしないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
機材の搬出/搬入を考えないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
宣伝努力をしなければしないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
プログラムやソフトについて考えないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
音質について考えないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
音符について考えないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
和音について考えないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
メロディについて考えないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
音楽“そのもの”について考えないほど、音楽に注ぐエネルギーは増える。
何を“音楽”と呼び、何を“考える”と呼ぶかにもよるけれど、
上記のように思うにも関わらず、“何も考えない音楽”に、私の心は殆ど動かない。

何かすることは、それ以外をしないこと。
何かを聴くことは、それ以外を聴かないこと。

私達は結局、出来ることしかできないし、
聴き取れるものしか聴き取れない。

「光は闇の中で輝いていた。
闇はこれに気付かなかった。」
(ヨハネ福音書)

私達は全員“光”であり、私達は全員“気付かない闇”である。

―2004 6/30、硬い近況

舞踏公演かぎろいは、終了致しました。
沢山のご来場、ありがとうございました。

尚、この公演のロビーにて、

for Butoh Vol,1

というアルバムを作成〜販売いたしましたが、6/30の時点では、店頭販売未定です。

トップページ無題詩を更新しました。
従来の無題詩は無題詩削除録にあります。

―2004 6/22、柔らかい近況

尊敬する心理学者が、折に触れ、
対立物の“統合”ではなく、“調和”を提唱しているが、
それがいかなる状態なのか、いまだに思い浮かべることが出来ない。
矛盾が多忙を生み、多忙が矛盾を生み、
時は満ちることなく過ぎて行く。
“生”の深度がもう少し浅ければ、
“ネットワーク・アイデンティティー”も可能なのだが。

紫陽花が美しい。

待つ力と、待たない力。

何かが発動していることは判る。
それが何なのか、最後まで判らないかもしれない。
これでは神仏に申し訳ない気もする。

忙しさは、ある種の怠惰を生む。
私はそれを恐れる。
しかし多忙であることからは逃れられない。
“多忙でありたい”という思いからも逃れられない。
要するに、近代人〜現代人のありふれた病だ。

―2004 6/8、柔らかい近況

雨上がりの夕空。駆けてゆく淡い黄色の雲。
人間には雲よりも美しいものは作れないし、
一枚の葉よりも、一匹の羽虫よりも精巧なものは作れない。
そんな、らしくもない考えを思い浮かべながら、
駆け抜ける雲を見ていた。

―2004 6/7、柔らかい近況

舞台芸術--といって怒る人がいるのなら舞台公演--で、
実はとても困るのは、“客選び”。
不遜なのは判ります。観にきて下さる方にどれほど失礼かも判ります。ごめんなさい。
でも、口に出さないだけで、実は大抵みんな困っています。集客〜動員と同じくらい困っています。
どういう宣伝をするか、どういうチラシにするか、どこのメディアに広告を出すか、
誰と誰にダイレクトメールを発送するか。

まず、とびきり困るのが、一部の批評家さん。(一部の、です)
「俺は○○だ。」と名乗って昂然とタダで入ろうとする。
係員の指示に従わずに好きな所に座り、出演者の通り道だろうがなんだろうが、テコでも動かない。
撮影は御遠慮くださいと言っても、平気でカメラで撮影。
しかも本番中に「照明が暗くて撮れないじゃないか」と怒り出す。
ガサガサと紙を取り出して、“批評文”をその場でガシャガシャと書き出す。
--公演、めちゃめちゃになります。

いかにして「あの批評家」が来ないようにするか、と“ブラックリスト”扱いになっていることも、ご本人は御存じないようです。あるいは気にしていないのかもしれません。

他にも、平気でケイタイでしゃべる、写メる、他のお客さんが真摯に舞台に向き合っている時に「つまんねーぞー」と野次る、数人で来て延々おしゃべりしている、着飾り過ぎて帽子や結い上げた髪で後ろのお客さんが見れない、「こんなつまんないもの見せやがって」と入場料を返すまで受け付けで怒鳴る(カップルの男性に多い)、などなど。

私自身も、何かの公演を観た時などに、上記ほどではないにしろ、
「自分は今日はいい客では無かった」
とひどく落ち込むことがありますが、
すくなくとも「いい客であろう」と心掛けてはいるのです。
これは、その公演が素晴らしいものであったか、ひでぇ代物だったかとは、また別の話なのです。

―2004 6/1、柔らかい近況

ほんの小さな私の思考が、夜を駆る。
時としてそれは、
私が支払った金銭が社会をめぐることよりも、重要な事に思える。
--しかしそんな考えも、もはや寝言に過ぎないのかもしれない。

思えばあっという間であった。
芸術は100%商品と思われるようになり、
貨幣で測れない価値は存在しないことになり、
芸術家は起業家であるか職員であるか、
どちらかの道しかもう殆ど残されなくなってしまった。
あらゆる精神行為は経済行為の一種としてしか認識されなくなったし、
国家ですら経済の下僕にすぎない時代がやってきた。

90年代、当時流行していた“エンジョ”について、
「これは“お前たちオトナは、人間同士は金銭でしかつながれないと思っているんだろう”という、女子高生たちの無意識的なムーブメント〜社会運動だ」
と言った学者がどこかにいたが、
その考察も、当の“無意識的社会運動”も、(私から見れば)水泡に帰した。
今世界を覆っているのは、政治的有事ではない。経済的有事だ。
これは“異を唱えたら殺される”というようなものではなく、
存在しないものとして気づかれもしないような類のものだ。
(新進の“クリエーター”達の受注に賭ける熱意からも、それが伝わって来る。彼等には創造と生産の区別が存在しない。存在しないから葛藤も無い。あるいは彼等の方が“大人”なのかもしれない。)

いろんな学者が「答えはない。事実だけがある」と、
経済的事実を並べて胸を張る。

いや、経済の突端で、何か非常に力強い友愛を実践している人物が世界中で同時多発していることは知っている。だが、その力を実際に目にした事はない。私にとってはまだ、ネットやフリーペーパーや、テレビの中での出来事だ。私自身にそんな力がないのは言うまでも無い。

この時代が終わったとき、私たちはどうなっているだろう。
戦後に“ナチスに加担したかどうか”を数十年にわたって社会から詰問されるような、そんな状態がやってくるのだろうか。
しかし、例外でいられる人間がこの世にどれだけいるというのか?

―2004 5/24、柔らかい近況

はふ…
皆さん、「CD−Rなんて原価100円くらいだろう」とか、
「パソコンで5分で作れるだろう」とか、思ってません?
音が悪くてもいいんなら、そんなこともできると思いますよ。
あと、千枚くらい簡単に売れるんなら、数百円のCDはつくれます。
でも。
仕事柄、ごく最近思い知ったんですが、
一部の安価な海外プレスCDよりも、
舟沢が自宅で渾身の思いでCD−R焼くほうが音がいいです。
何と何をどう使って、何に時間をかけて、何に気をつければ、
安い業者プレス以上の音質をCD−Rで出せるかは、内緒です。(すいません。)
公開してもだれもマネしないでしょうけどね。大変だから。

―2004 5/12、柔らかい近況

忙しい中、ふと、何かとても大事なことを忘れている気がする。
幾日かして、その何かが、「詩」のようなものだと思い出す。
さらに幾日かして、それがおそらくウィリアム・ブレイクの詩であること、
それが死者に関する詩であること、
それがソダバーグ版の「ソラリス」に朗読で出てきたらしいことを思い出す。
でもそれがどういう内容だったのか思い出せないし、
またDVDを観返してみても、その詩の何がとても大事なのか、
はっきり理解することはできないような気がするし、
だいいち、観返す時間も考える時間も今の私にはない。

確かウィリアム・ブレイクに死者に関するとても大事な詩があったということ、
その印象が、忙しい私の中でも作用し続けているらしいということ。

ただそれだけを思い出して、あくせくした活計(くらし)に戻っていく。

―2004 4/27、硬い近況

innersoundscape series

innersoundscape1
「緑」
innersoundscape2
「底の方は少し固い」

発売開始 各¥1260(税込)

舟沢作品取扱店一覧も更新しました。

トップページ無題詩を更新しました。今までの無題詩は削除録にあります。

―2004 4/27、柔らかい近況

数年前から、何らかの作品なり公演なりについて、

「砂漠にスポイトで水を垂らすような行為」

という表現を時折目にするようになっていた。
チラシなどに、そういう表現の推薦文が載っていたりした。

その水は地面まで届かないかもしれない。
届いても無駄かもしれない。
それでもそれなりに価値ある行為なのだ
--というような。

ふと気づけばそういう表現も、
ここ数ヶ月でぷっつりと消えてしまった。
“無駄かもしれないがやらざるを得ない”ような行為をする人がもういないのか、
無意味なものは無意味なのだ、ということになって、書く人がいなくなったのか。

---そんな中での、新作発表となりました。

―2004 4/14、硬い近況

舟沢作品から“for walking” (MP3)を削除しました。

―2004 4/7、硬い近況

japanoise.netというサイトに、エッセイ「舞踏と音楽 その2」が掲載されました。
直リンクはこちら

innersoundscape (内的音風景/心象音風景)と銘打ったシリーズもののCDを製作中です。
「緑」「底の方は少し固い」の2枚同時発売を予定しており、
それぞれアルバムと同タイトルの曲が1時間弱、1曲づつ収録されております。
5月中には発売できそうです。

―2004 3/24、柔らかい近況

私は“言葉”を失いつつある。
一時的なものかもしれないし、
そもそも生きていくということ、歳をとって行くということは、
“言うべき言葉”を失っていく事なのかもしれないし。

―2004 3/16、柔らかい近況

古いものは古臭くていやだ。
新しいものは馴染まなくていやだ。

変化が烈しすぎて気が狂いそうだ。
変化がなさすぎて頭が腐りそうだ。

何もかも古すぎる。
何もかも新しすぎる。

なんなんだろう。

―2004 3/10、柔らかい近況

最近、グローバル・アウシュビッツという言葉が脳裏にちらつく。
けれど、少々グノーシス過ぎると思うし、
だいいち、そう呼んでみたところで、どうなるものでもない。

―2004 3/2、硬い近況

トップページの無題詩を変えました。
今までの無題詩はトップページ無題詩削除録にあります。

―2004 3/2、柔らかい近況

五里霧中。一寸先は闇。
今どき、誰もがそうでしょう。
私もそうです。

社会の再建。
もしもそれが、いい事か悪い事か問題になるとすれば、
多かれ少なかれ、それに“あと戻り”が含まれるからでしょう。
“あと戻り”したい人々と、“新たに打ち建てたい”人々が、
見かけ上一致してしまう。

じつは、自我の再建も同じだったりします。
個人の内部で、ほとんど同じ事が生じます。
このへんに何かヒントがあるのかもしれません。

そうは言っても、
自分に降りかかる火の粉。
五里霧中。一寸先は闇。

―2004 2/24、柔らかい近況

この季節の風は、聴いてて飽きない。

―2004 2/11、柔らかい近況

私はホラーゲームに出てくるような薄暗い霊安室にいる。
目の前に、これまたホラーゲームに出てくるような、粗末なベッドがある。
そのベッドの上に、波形が横たわっている

ここで言う波形というのは、音をコンピューターに取り込んで、グラフにしたものです。

こんな感じの波形が、イカかクラゲか何かのように、半透明で立体的に、
目の前に横たわっている。大きさは1メートルちょっとだろうか。
その波形を、私は何やらワイヤーともナイフともつかない奇妙な細長い器具で、
すばやく、手際よく、細かく切り刻んでいる。
波形が「キシ‥キ‥キシ‥」と悲鳴のような音を発している。
私は、感じた事のない種類の異様な快感を感じて、波形を切り刻み続けている。

---目が覚めてからしばらく考える。
波形というのは、音の死体である。
このことは、サンプリング技術の登場時から思っていたことだ。
通常、私は波形編集をする際、切り貼りしたことが分からないように、
きめ細かに磨きこむのだが、
最近流行の、わざと“波形の切り刻み感”を強調する音楽の研究のために、
前の晩に普段やらないような方法で波形編集をやって、音をメチャメチャにして、
「ああそうか、あのキシキシ音はこうやって作るのか」とか思っていたのだ。

分からないのは、夢の中で感じた異様な快感だ。
前の晩の波形編集作業ではそんな快感は感じなかったし、
むしろやってて苦行のようだったのだが。
音の死体を霊安室で切り刻んでの快感‥?
インターネットで色々検索して、ある言葉を目にして凍りついた。

ネクロサディズム(死体加虐性愛)

‥‥私は、かなりやばい心の鉱脈を掘り当てちゃったのだろうか?
逆に言うと、最近多い波形切り刻み音楽をやってる人たちって、
けっこう死体加虐性愛衝動でやってたりするのだろうか?

幸いなことに、この快感は夢の中だけに顕れ、覚醒時に感じる事は全くない。
いずれにせよ、通常の意識では捉えられない“何か”が、
脳の奥深くに膨大に格納されており、
それらはほとんど、生涯に亘って発現することはないのだろう。

―2004 1/28、柔らかい近況

都市は野生を抑圧する。
あるいは、野生を抑圧したものを、都市と呼ぶ。
「日本全体が都市化した」とか「地球全体が都市化した」などと言うとき、
“都市”という言葉は、“人間の通常の意識が野生を抑圧している状態”を指している。
最近はやりの言い方をすれば、「大脳新皮質が大脳新皮質以外の全てを抑圧する」状態、
それを都市と呼ぶ。

都会に適応できる野生はとても限られている。
カラス。ネズミ。ゴキブリ。
都市に適応する、ということは、
うまいことワナを切り抜けてゴミをあさる事ができる、
悪意満載の殺虫スプレーでも死なない、
縦横無尽に跳びまわってあらゆる危険をかいくぐり走り続ける、
そういうことなのだろう。

カラスやネズミやゴキブリみたいに生きる以外の選択肢を得るには、
私たちはどうしたらいいんだろう。

―2004 1/20、柔らかい近況

残念ながら、ハードウェア・シンセは衰退していくような気がする。
鍵盤は単なる入力装置となり、仕事の大半はパソコンの中で行われるようになっていくらしい。
シンセを“生で弾く”必要がある場合、ピアノ、オルガン、シンセブラス、パッドなど、
決まった音を出すことが仕事となるらしい。
「自分の音を作って自分の体で弾く」というニーズ自体がなくなっていくらしい。

それに、かつて80年代がそうだったように、
プロとアマチュアのあいだに再び溝が出来ていくような気がする。
80年代は、200万するシンセや300万するサンプラーを持ってないと、
プロと思ってももらえなかった。
最新のCPUで最新の楽器データを、最新のソフトで鳴らす。
そうしないとバカだと思われる時代。
最近の映画やCMのオーケストラの音を聴いてて、
「ああ、これはン10万するあのDVD−ROMの音なんだろうな」などと思うにつけ、
そんな時代が来るんじゃないのか、と思ってしまう。
(皆さんがテレビや映画で耳にする音楽は、民族音楽だろうがクラシックだろうが、
最近は殆どコンピュータの音だったりするのです。)

最新のパソコンを買い続け、ソフトをインストールし続け、順応し続けるか、
あるいは音楽理論的に精密な楽譜を書いて書いて書きまくるか、
さもなきゃ生楽器を誰よりもだれよりも上手く弾きこなすか。

…‥ぶっちゃけ、私にはどれもできそうにない。

三島由紀夫だったろうか。記憶があいまいだが、どこかでこんなような事を読んだ憶えがある。

「学生の頃辞書を読みふけり、“恋”という単語も理解して、
恋の悩みを打ち明ける友人に対して、なぜこんな事に悩むのだろう、
辞書に書いてあるのに、などと思っていた。
辞書で理解したものと実際に経験するものとは違う、という事が当時の自分には判らなかった。」

考え抜かれ、夢見られ、打ち立てられた共産主義国家と、
実際の共産主義国家はひどく違う。

70〜80年代に机上で夢見られたポストモダンと、
90年代以降にやってきた実際のポストモダンはひどく違う。

誰かが未来を言い当てても、実際に来るものとは、
“当たってても違う”ものらしい。

「当たってても、違う」

夢は実現しても“違う”かもしれないし、
不安は的中しても“違う”かもしれない。

―2004 1/13、硬い近況

舟沢作品に、for Walking というmp3を置きました。
(4/14に削除しました。)

―2004 1/6、硬い近況

アルバムともシングルともつかない、
やや珍しい作品を発表する計画があります。
ある程度メドがつきましたら改めて告知いたします。

―2004 1/6、柔らかい近況

歳をとるほど、分からない事は多くなっていく。
多くのことを、知ってるつもりに過ぎないと思い知る。
知りそこねたこと、知ろうとすらしなかったことのいくばくかは、
これから長い時間をかけて取りかえして行かなければならないし、
別のいくばくかは、もはや二度と取り返しがつかない。

私はどれほどの物事を知り、体得していると言えるのか。

私が培ったものごとの大半は、他人の誰にも意味がないのかも知れない。
--私の音楽は、特殊すぎるのだろうか。時折そんなことを思ったりする。


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